tamaki niime 第2回 着心地のいい服を選んで

北播磨の伝統産業・播州織で唯一無二の服をつくる「tamaki niime」。デザイナーである玉木新雌さんに、現在のブランドへ至るファッションのルーツをうかがいました。
- SOUQ
- ファッションデザイナーを目指すきっかけは何だったのですか?
- 玉木
- 実家が自営業で、化粧品とお洋服の店なんです。小売店で、仕入れは大阪へ行く。私も休日のたびについていって。うちの小学校は私服で、毎日のコーディネートを考えるのが楽しくて。仕入れのときは、今シーズンの通学着を自分なりに組み合わせて選ぶ、ということを課題にしていて。
- SOUQ
- 小学生で服の楽しさに開眼された。
- 玉木
- 実家のお店で遊ぶことも多くて、お客さんがきれいになっていくところを見たりして。私も親の延長線上で何かやりたいと思ったんじゃないかな。

小学生で着回しコーデを自己分析
- SOUQ
- “買う”から“つくる”になったのはなぜですか?
- 玉木
- 小学生で3カ月間の着回しをしていたとき、自動的に何度も着る服と、1回着たきりでタンスの肥やしになる服があることに気付いて。なんで私はこればっかり着るんだろう?と分析しだして。そうしてわかったのは、着心地のよさだった。着にくい、動きにくいものは無意識に回避して、肌触りのいいもの、着ていて気持ちがいいものばかりを選んでいて。その後は服の仕入れそのものが面白くなくなって。パターンが決まってきた、みたいな(笑)。服に対してわがままになってきて、この生地ならこういうデザインの方がいいのに、とか(笑)。

- SOUQ
- 早熟ですね。
- 玉木
- 中学生になって雑誌『装苑』を見ながら、パターンを引きはじめて。でも、つくり方は全然わからなくて。親の知り合いのパタンナーさんに手ほどきを受けて、高校生の頃には自分好みの服をつくるようになりました。自分の日常着はこだわりたい、みたいな気持ちが今につながるきっかけですね。
- SOUQ
- その後、服飾の学校に?
- 玉木
- そうですね。専門学校に進んで。そのときに思ったんです。デザイナーは感性の仕事で、経験則ではない。でもパタンナーは経験が必要。パターンを引き、数をこなさないと技術が上がらない。だから、就職するならパタンナーでいこうと。
- SOUQ
- 実際にパタンナーとして就職されたのですか?
- 玉木
- しました。パタンナーはデザイナーに指令されたものが何でも引けるようにならなきゃいけない。自分がつくりたいものでなくても、引く経験ができる。だから、自分の中の幅が広がるはずだと。


じぶんが欲しい播州織とは?
- SOUQ
- 独立は視野に入れつつ?
- 玉木
- 考えていたところはあったかもしれない。
- SOUQ
- ブランドを立ち上げて、播州織に出会って。
- 玉木
- 播州織って、第二次世界大戦前後は輸出でたくさん稼いでいたそうです。イギリスの高い技術を取り入れながら、イギリスよりも安く輸出したことで西脇も繁栄した。
- SOUQ
- 工芸ではなく産業としての織物なんですね。

- 玉木
- ブランドの立ち上げ当初、明確なイメージはなく悶々としていたときに出会った西角さんは、代々の家業が播州織という職人さんで。「いい時代も知っているけど、これからの新しい可能性も考えなければ播州織はダメになる」って。西角さんは職人だから技術のプロ。でも、当時の私は織機を使えるわけではなかったから、買い手としてどんな播州織があったらいいかを考えて。お互いのアイデアを出し合って新しいものができれば、他にはない唯一無二のものができるんじゃないかなって。
- SOUQ
- 「tamaki niime」は素材として播州織を使うけれど、方法論が新しい。
- 玉木
- 私の場合は女だってこともあるし、買いものも好きだし、お洋服も好きだから、自分が着るんだったらどうしたいか?って常に考える。そういう目線が職人さんやつくり手の中には意外とないんだと、気付けたのがよかったのかもしれません。
取材・文/村田恵里佳 写真/桑島薫
唯一無二の播州織を求め、奮闘しはじめた新雌さん。次回第3回は、名作ショール誕生の話と、「tamaki niime」の魅力のひとつである“色”についてうかがいます。